インタビュー

SUMICALM リリース記念インタビュー連載:フリーアナウンサー町亞聖さん -第1回-

公開日:2016/12/01

SUMICALMのリリースを記念して、フリーアナウンサーの町亞聖さんに

インタビューをさせていただきました。

今回から4回にわたっての連載企画!ご自身の介護経験を生かした活動を続けていらっしゃる町さんの言葉には、説得力と新たな気づきがありました!

フリーアナウンサー:町亞聖さん

第1回介護と向き合う1

介護とは、できないことをサポートし、できることを伸ばすこと。

ズバリ!町さんにとって「介護」とはなんでしょうか?

最初から大きなテーマですね。「介護」とは非常に大きなテーマなので、答えは、いくつかあります。私の母にサポートが必要になった時は、「介護」という言葉ではなく、「福祉」という言葉が使われていました。

当時はサービスを受けるためには市役所に書類を提出し、市役所が決めた限られたサービスしか受けることができませんでした。その意味で今は「介護」は与えられるものではなく、自分達で選択するものへ大きく変わったと感じています。

家族が介護をするのが当たり前という中で、くも膜下出血の後遺症で車椅子生活になった母と向き合ってサポートすることを、私は「介護」だとは思っていませんでした。

母の後遺症は右半身不随、言語障害、知能の低下という非常に重いもので、確かに元気な時に比べて、できなくなったことが沢山ありました。

ただ、母のできなくなったことを数えるのではなく、左手でも母にできることは何でも自分でやってもらうというように考え方を変えることにしました。

何もできなくなったと決めつけて本人から可能性を奪うのではなく、できないことだけをサポートして、できることを伸ばしていきました。母の自立度を高めることは、家族の負担がそれだけ軽くなるということに気が付きました。

介護というと介護をする側、介護をされる側とイメージする人が多いと思いますが、私と母の関係は介護をする側、される側というものではなく、生活の支援をしているだけで、介護は「生活の一部」となっていきました。

介護とは「突然」ではなく、「誰もが直面する問題」と意識を変えること

介護は「突然」降りかかるもの、そして「他人事」だと捉えがちです。

そんな私自身も介護に直面したのは今から26年も前のこと。母が倒れた時は、私はまだ18歳で、母は40歳。お互いに本当に若かったので、まさか母が障害者になることは想像もしていませんでした。

他の血管を傷つけたら死んでしまう可能性のある難しい手術と先生からも言われていましたので、まずは命をとりとめたことに感謝しました。

今も講演などでお話する時は、「突然」という言葉を使ってしまうのですが、ここまで高齢化が進み大介護時代を迎えている日本では、認知症や母のように脳卒中の後遺症などでサポートが必要になるということは決して他人事ではないのです。介護を突然訪れるものだと捉えていると、物理的にも精神的にも準備が後手後手になってしまいます。介護は「誰もが直面してもおかしくないこと」だと意識を変えて、事前に情報収集しておくことが必要だと思います。

構えて「介護」とは、となると、私がやらなければ!といった感じに、背負ってしまうことになってしまいます。長女だった私も幼い弟と妹がいましたので肩肘をはってしまっていました。家族のために自分の時間を割かなければならず、同級生と同じように青春時代を過ごすことができませんでしたが、自分自身もできないことではなく、「できること」を数えるようにしました。介護を担う側にもこの発想の転換は有効だと感じています。

「介護」とはまるで「写し鏡」のよう・・・

「介護」とはという質問の答えの一つに「写し鏡」を挙げたいと思います。

介護をする側に余裕がないと、その余裕のなさはそのまま相手に伝わってしまうものです。

介護保険制度がスタートして16年が経ち、利用できるサービスも充実してきました。物理的な負担は第三者の手を借りることで軽くすることがきます。

介護に直面している人にお話を伺うと、施設を選択したことを後ろめたいと感じている方が未だにいますが、考え方を切り替えることで精神的な負担を少しでも軽くしてほしいと思います。

専門家に任せるところは任せて、家族にしかできないことをやれば良いと考えてみて下さい。例えば「その人らしく」と介護の現場でよく言われていますが、施設にいる家族を訪ねた時に、スタッフに自分の親がどんな人間なのか語ることは家族にしかできないことです。

自分のできることをできる範囲でやるということでいいと思います。

「介護」と聞くと、つらくて大変だ、そして「切実な問題」というイメージがありますが、その「介護」のイメージをどうやって変えていくのか、が今後とても大切になってきます。"介護、その後"を生きている私からお伝えしたいのは、介護には答えはないということです。

10人いれば10個通りの答えがあります。家族のために人生を介護にかける選択もあると思っています。私も母や家族のために自分の時間の多くを費やしましたが、後悔はありません。大切なのは自分で納得して選択をしていくことだと思います。長丁場だからこそ、介護を担う側も心を軽くする方法を見つけて、「楽しんでやっています」と言えるような介護が広がってほしいと願っています。

町さんの著書「十八歳からの十年介護」というタイトル通り、18歳のときにはじめて介護に向き合う状況となられ、介護に直面されたとき、まずどのような事を感じましたか?

病名はくも膜下出血でしたが、交通事故のように目に見える怪我をしているわけではないので、まさか母の頭の中で血管が切れているという大変なことが起きているなんて想像もつきませんでしたし、昨日まで元気だった母が死んでしまうかもしれないということが一番大きな衝撃でした。朝起きて頭痛がすると言っていた母。見た目には何の変化もなく横になっていれば大丈夫だからとのことで、家族はそれぞれ学校や仕事に出かけました。

ですが、夕方になっても頭痛は治らず、これはおかしいと病院へ連れて行きその結果、どうやら血管が切れているようだ・・・と宣告されたのです。大きな病院ではなかったので手術日が決まっていて、入院してから2日半ほど空けての手術でした。どのような状況になってもいいのでお母さんの命だけは助けて下さいと神様にお願いしました。そして、もし母がいなくなったら中学生の弟、小学生の妹の幼い2人をどう養っていったらいいのだろう、どうやってこの2人を守ろうかと思いました。自分の将来のことよりも、この家を誰が守るのだろう、やはり長女の私しかいないよね、私がしっかりしないと、と強く思いました。

逃げ出さずに頑張れば、必ず道は切り開ける・・・

町さん含めてご家族の生活は一変したのではないですか?

父は典型的な亭主関白な人で家のことは一切できない人でした。しかも、お酒飲みの父親で飲みすぎると卓袱台をひっくり返すこともしばしば・・・。

母が倒れても全く変わることはありませんでした。

必然的に我が家の介護の担い手の中心は私ということになりました。長く続く介護を上手に乗り切るためには役割分担が非常に重要だと感じています。

介護の負担を均等に分けるということは残念ながら難しく、誰かが中心となり引っ張ってく必要があります。

大切なのは中心になって介護する人を支える体制を作ることです。

我が家の場合は、まだ弟と妹は介護の戦力にはならず、父にも頼ることができません。その中で、受験を控えていた中学3年生の弟には公立の高校に受かることをお願いしました。

経済的にも苦しくなりましたので、学費の高い私立の高校に行かせてあげることはできません。ひどい姉ですが「あなたは、公立に受かってくれればそれでいいから」、とプレッシャーをかけてしまいました。

母親が生きるか死ぬかという状況の中での受験にも関わらず、弟は頑張ってくれて見事公立高校へ合格してくれました。

そして、母親の存在がこれから必要になる年頃の小学生の妹が一番不安で淋しかったと思いますが、実は弱音を吐かなかったのは彼女でした。妹は父と一緒に先生から母の厳しい状況を聞いていたので、幼いながらも母に何が起きているのかはきちんと理解していました。歯を食いしばり懸命に耐えている2人を前に、姉である私が逃げ出すわけにはいかないと思いました。

どんな困難な状況でも逃げ出さずに頑張ることで、道は切り開けると私も信じたかったですし、2人にもそう思ってもらいたかった。

とにかく自分の背中を見せるしかなかったわけですが、逆に考えると弟と妹がいたからこそ私は頑張ることができました。2人の存在は本当に大きかったです。

1人じゃないという気持ちが心の支えに・・・

今から考えると2日半も空けての手術で母はよく命を取り留めました。「このまま子ども3人をおいて死ねない」と思ったのではないでしょうか。

重い障害は残りましたが、母の存在自体が大きな心の支えとなりました。母はリハビリの病院に1年間入院していましたが、母がいない中で自分たちの力で生活することに慣れないといけなかったので、その1年間は私たち子供にとってもリハビリ期間となりました。

お見舞いに行き、でも本当のリハビリは母が家に戻ってきてからが本番でした。

1990年代はまだバリアフリーという言葉もなく、家の中はバリアだらけで、利用できる介護サービスもありません。段差だらけの家の中で、日中は一人で過ごさなければならない母がスムーズに生活できるように訓練をしました。

そして、食事作りも食べ盛りの弟、妹の食事と、母の塩分を抑えたリハビリ食を用意しなければなりません。

今から25年も前で、インターネットもなく料理本も「高血圧の食事」という本しかありません。介護に関する情報が全くない無い中で、試行錯誤を繰り返していきました。母が倒れるまで、家事の手伝いなどしたこともなく、もちろん料理もやったことがありません。私よりも弟、妹のほうが「お姉ちゃん、ごはん作れるのかな?」と心配していたはずです。

恥ずかしい話ですが・・・最初の1年間は2人に何を作って食べさせていたのか正直言うと記憶にありません。ただ、今でも覚えているメニューは「ちくわの磯部揚げ」。それを私はどこで身に着けたのかよくわからないですが(笑)油で揚げるとちくわは大きく膨らむんです。その出来上がったちくわを見て、「いっぱいになった!いっぱいになった!!」と喜んだ想い出があります。頼りない母親代わりの私を見るに見かねて・・・母の友人や母の実姉にも食事の面でもいろいろ助けてもらいました。

山盛りの唐揚げを食べさせてもらった時は3人で泣きながら食べました。

そのほかにも、授業参観や三者面談に私が行ったり、妹の小学校の卒業式に母代わりに参列して大泣きしたことも今では良い思い出です。

町さんにとって心の支えはご家族や、そしてお母様だったのですね。

そうですね。初めは自分が家族や母親を支えているつもりでしたが、気がつけば私が支えてもらっていました。実は母が倒れたあと、一番泣いていたのは私でした。

一人じゃないという気持ちが心の支えになっていたのだと思います。

「成功体験」は母が一歩踏み出す勇気に、そして家族の笑顔に・・・

当時、ストレス解消法やリフレッシュ方法などはお持ちでしたか?

障害者用のトイレが設置されている施設はほとんどない状況でしたが、車椅子の母と一緒によく外出をしました。

半身麻痺の母は和式ですと絶対に入れませんし、まだ40代ですのでおむつをつけて出かけるのは絶対に嫌でしたので、行く先々に母が利用できる洋式のトイレがあるかどうかを電話で確認するなど事前に準備をして、月1回は遠くに連れて行くということを決めていました。

利き手が使えなくなった母ですが、左手だけで本当に頑張っていました。ただ、私は厳しい娘だったので、もっともっとできることを増やしてあげたいと思っていました。さすがにパラリンピックに出られるように頑張れとは言いませんが(笑)

やはり一人では外出できませんでしたので、どこかで遠慮する気持ちはあったと思います。

そんな母に一歩踏み出す勇気をもってもらうためにも、どんどん外に連れ出して、成功体験を積み重ねていきました。季節ごとに桜を見たり、海を見に行ったり。大したところへは連れていくことはできませんでしたが、母はとても喜んでくれました。

家に帰って汚れた車いすを洗っていると、父に楽しかったことを片言で一生懸命に話している母の声が聞こえてくるので、また次どこへ行こうかなと考えるのも楽しかったです。

自分にとって母の笑顔を見ることが一番のリフレッシュになりました。

また、はじめは頼りなかったごはん作りですが、いつの間にか自分は家事に向いていると気づきました。食器も100円均一のようなところで安く揃えたものに盛り付けして、目で見ても喜んでもらうようにしたり。献立も頑張ってお味噌汁、ごはん、サラダ、メインともう1品を加えて5品は作るようにしていました。

負けず嫌いな性格もあり、店屋物に頼りたくなくて、自分で一生懸命つくっていました。そしてこれまた何でも喜んで食べてくれる母の笑顔を見られるので、ごはんをつくることも私のストレス解消でしたね。

喜んで食べてくれる人がいるだけで、ごはんを作ることが楽しくなり、笑顔を見るためにもっと工夫しようと思える、というのが介護を楽しくやる秘訣ではないでしょうか。

気持ちのキャッチボールができる間柄で一緒に過ごしていくことが重要ですね。

気持ちのキャッチボールという言葉、まさにその通りです。介護は「写し鏡」だとお話しましたが、どちらかがイライラしていたら絶対に相手に伝わってしまいます。

「しょうがない、仕方ないのよ~」という「前向きな仕方ない」が母の口癖でした。

私が仕事で落ち込んでいるときも「しょうがないのよ~」と母に言われると、そうだよね、しょうがないよね、と不思議と気持ちが楽になりました。

我が家で一番強かったのは母だったのです。

車いす生活になったことで落ち込んだ姿を一度も見せなかったことがありませんでした。もし母が悲しんでいたら、私達もそうだよね、お母さん悲しいよね、と思ってしまったかもしれません。ですが、いつもひまわりのような笑顔で私達を明るく照らしてくれたので我が家は暗くならずにすみましたし、介護をするという感覚を持たずに済んだのは母のおかげです。

母親の朝一番の仕事、子供を起こすことからはじまり、洗濯物をたたんだり掃除機をかけたり、お茶碗を洗ったり普通に生活していました。多少時間がかかってもやってもらう、やれることは最後まで一つでもいいからやってもらうことがとても大切だと思います。

そうすることで母も次第に「母親の自覚」を取り戻していきました。

次回は介護で身に付けた「発想の転換」など興味深いお話しを伺います!

とても熱心に語ってくださった町さん。お話しの最中もたくさんの笑顔で雰囲気をなごませてくれました。若くして一家を支えながら、お母様への想い、ご家族への想い、そしてご自身の想いを大切過ごされてきたからこそ、生まれる素敵な笑顔なのだと感じました。次回は、長い介護を終え今とてもポジティブな発想をお持ちの町さんから、介護で身に付けた「発想の転換」など、興味深いお話を伺います!

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【プロフィール】

1995年に日本テレビにアナウンサーとして入社。

その後、活躍の場を報道局に移し、報道キャスター、厚生労働省担当記者として医療や介護問題などを中心に取材。

(がん医療、医療事故、不妊治療、難病、社会保障問題など)

2011年にフリーアナウンサーに転身。

脳障害のため車椅子の生活を送っていた母と過ごした10年の日々、そして母と父をがんで亡くした経験をまとめた「十年介護」を小学館文庫から出版。医療と介護を生涯のテーマに取材を続ける。

【出演番組】

TOKYO MX土曜日 午前11時~12時
「週末めとろポリシャン」MC
文化放送水曜日 13時~15時30分
「大竹まことのゴールデンラジオ!」水曜レギュラー
ニッポン放送毎週日曜日 あさ6時25分~6時55分
ウィークエンドケアタイム「ひだまりハウス~うつ病・認知症を語ろう~」

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